ゲームがやりたい

ゲームがやりたいと思えるような記事を書きます。

「ゲームなんかやっててなんか意味あるの?」という言葉の残酷性

お盆です。ご先祖様を祀る時期ということで、親族一同が集結する時期ですね。


結婚して子供も生まれると夫(僕)側、妻側両方の親族に顔を出すために大忙しです。子どもたちは楽しそうで良いんですけどね。


親族のイベントに行くと、普段はあまり会わない方にもお会いします。

妻の実家から見ると僕はまだ数年しかいない新参者の部類なので妻が紹介してくれるのですが、日ごろの恨みか「ゲームばかりしている人」という紹介なのでご年配の方からは印象が悪い僕。


まぁ家事育児以外の時間はほぼゲームに充てているのは事実なので仕方ないです。「僕の余暇時間の過ごし方」という円グラフからゲーム関連の事をしている時間の割合を引き抜いたら、残るのはちびまる子ちゃんに出てくる山根君の頭くらいの大きさですから。

そんなゲーム人間の紹介をしていただいたところで、初めて出会ったおじ様から「ゲームなんかやっててなんか意味あるの?」と聞かれました。

つまり、"実益、役に立つか"と問われたわけです。これって物凄い残酷な質問だと思いませんか。



たとえば小学生の頃から野球が好きで、いまだに休日でも草野球をプレイしている人がいたとして「チミィ、野球なんかやってて意味があるのかね?」と聞くんでしょうか。

もはや、意味なんてないんですよ。プロ選手ではないんですから。特に野球に関わる仕事をしているわけでもない。



ゲームだって同じです。それだけ趣味に時間を捧げてるのに、決して仕事にはできなかった人に「意味があるの?」は残酷すぎやしませんか。



いいえ、意味はありません。僕はこの趣味を子どもの頃からやってきたけど、結局なんの役にも立ちませんでした。僕は何者にもなれなかった。かつての神童の夢は破れ、長く続けた分だけ少し上手なただのおじさんになってしまいました。」なんて答えを出会ったばかりの人に吐き出せとでも言うのでしょうか。



そんな現実をいきなり突きつけなくてもいいじゃないですか。ひどいですおじ様!


それとも、もはやその趣味に意味など無いことを知った上でのご質問なのでしょうか。

「金にもならぬ、飯にもならぬ。周りからは疎まれる。この現代社会において、もはや趣味を続ける意味などないだろう。意味がないとわかったうえで、なお続けることに何を見出しているのだ。」という問いですか。




おじ様は、僕の生き様を問うているのですか。





おじ様。僕たちはまだ出会って10分です。この問いについて僕の想いを語るにはちと早すぎるような気がします。




…まぁきっとおじ様はちょっとした好奇心、僕に対するコミュニケーションで質問されているのでしょう。

ここはさらっと流して「意味は何にもないですよ!(笑)そういや最近はポケモンGOっていうのが流行っていて都内でも色んな所に人だかりができますねぇ。」と次の会話へ繋げるボールを返すのが親族が集まる社交場の正しい態度ってもんでしょう。



でも本当は知って欲しい。「趣味に意味があるのか」という問いは、非常に残酷なものであると。あなたは今、人の生き様について問うたのだということを。